16世紀初頭から18世紀末までのフランス近世時代の歴史的な出来事とともに、当時食べられていたお菓子、お菓子の材料の歴史をみていきましょう。
便宜上、1498年のヴァロワ=オルレアン朝フランス王国から1792年のブルボン朝の王権が停止されるまでをフランスの近世時代とします。
16世紀ルネサンス時代の到来
16世紀から始まる近世時代は、王が権力を持つ絶対王政の時代で、フランス革命よりも前の体制であるアンシャン・レジーム(旧体制)と呼ばれていました。
この時代はまだ砂糖は非常に高価なものでしたが、一部の貴族や修道院でのみ使われていました。食事の最後には砂糖を使った甘い料理を食べる習慣が始まったのもこのころです。
ただ、一般庶民には手の出せない高価なものでした。お菓子の発展には砂糖の生産が増えて、砂糖の値段が下がり一般に流通することが欠かせません。その意味では16世紀はまだお菓子の発展はみられません。
そんな中、甘いお菓子という認識が広まるのがこの時代です。
まず、ヨーロッパではアジアなどのヨーロッパ大陸以外の土地をめざした大航海時代が始まり、砂糖やチョコレート、コーヒーやバニラなど現代のお菓子に欠かせない材料が入ってくるきっかけとなります。
さらに、他の国の王女と結婚することにより、外国のお菓子もフランスに入ってきます。
イタリアからお菓子が伝わる
1521年からフランスのヴァロワ家はハプスブルグ家との戦争が始まります。これはヴァロワ家はイタリアのナポリ王国とミラノ公国への権利は祖先から受け継いだものだと主張し、イタリアの領土を手に入れるために戦争をおこないました。
この戦いは60年ほど続きますが、フランスは勝利と敗北を繰り返し、最後には敗北してしまい、イタリアに対するあらゆる野望を諦めることとなりました。
フランスは負けてしまいましたが、ただ負けただけではありません。イタリアのすばらしく美しい芸術や文化が入ってくるきっかけともなりました。
その当時の王であるフランソワ1世は、芸術は国の栄光と繁栄につながると理解し、フランスのルネサンス時代を牽引しました。
また、ヴァロワ家は隣国のライバル関係にある王朝と戦争をしないように戦略的な結婚をおこないました。この戦略結婚もまた外国からの文化が入ってくるきっかけとなりました。
1533年、イタリアのメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスが後のフランス王になるアンリ2世に嫁いできます。メディチ家とは15〜18世紀にフィレンツェで銀行業で財を成し、後に政治の実権を握るようになった商人の家系です。16世紀にはトスカーナ大公国の君主にもなりました。
中世時代からルネサンスにかけて、イタリアではお菓子作りに関して高い技術をもっており、お菓子はフランスよりも洗練されていました。例えば、パット・ド・フリュイ、果物の砂糖漬けやジャム、ヌガーなど砂糖を用いた砂糖菓子が発展していました。
さらには、マカロンやフランジパーヌ、スポンジケーキ、サバイオネ砂糖を用いた細工お菓子をつくっていました。
カトリーヌは14歳のときにはすでに大食感で、多くの料理人や菓子職人を連れて嫁入りしました。
彼女が連れてきた料理人たちがきっかけとなり、フランス宮廷にマカロンやフランジパーヌ、ジェノワーズ(スポンジ生地)やサバイオーネ、ジェラートなどが伝わりました。
カトリーヌとアンリ2世との結婚式の際には、フランボワーズやオレンジ、レモンやイチジク、レーズンやアーモンドやピスタチオなど様々な果物のジェラートがテーブルに並び、列席者を驚かせたと言われています。当時のフランスでは冷たいデザートはあまり知られていませんでした。
さらに、カトリーヌは当時スプーンや手づかみで食事を取っていたフランス人にフォークの使い方を伝えました。香水や日傘などイタリアの洗練された文化を伝えました。
ノストラダムスのコンフィチュール
同時期の1550年頃から、医師や占星術師としてノストラダムスが活躍します。彼は予言者として有名ですが、料理に関する本も出版しています。
1555年に出版した『化粧品とジャム論 Fardements et des Confitures』の中では、砂糖と果物を用いたジャムやジュレ、砂糖漬けなどのレシピを紹介しています。当時、砂糖はアラブ諸国から輸入される非常に高価なもので、お菓子としてではなく薬としてもちいられていました。
イタリアの影響を受けたデザート
ベルギーの料理人であるランスロ・ド・カストー Lancelot de Casteauは著書(L’Ouverture de cuisine)の中で、イタリアの影響を受けたデザートを紹介しています。
4番目のサービス、つまりデザートとして、パット・ド・ジェーヌ Pâte de Gênes、マジパン Massepain、ひし形の焼き菓子(Moustacholes)やビスキュイ(Fongeline)、ピスタチオのヌガーなどを提供していたとしるしています。
Moustacholes:ナツメグやクローブ、シナモンで香り付けした小さなひし形の焼き菓子
Fongeline:じゃこうで香り付けしたビスキュイ
同じ時期のフランスのテーブルでは、ベニエやベ・ド・ノン Pets de nonneなどの揚げ菓子、プチ・シュー Petits chouxやフガスなどの焼き菓子、マーマレードなどフルーツをつかったお菓子を提供していました。これらは中世の頃から食べられていたお菓子で、まだ洗練されたものではありませんでした。
バターも使われはじめる
バターはエジプト王朝から作られていましたが、中世に入るとキリスト教の規則により食べるのを制限されていました。主に、結婚式やカーニバルの時期には食べていましたが、四旬節には禁止されていました。中世時代では現在の15%の料理やお菓子のレシピにしか用いられませんでした。
しかし、16世紀に入るとバターが頻繁に使われ始めます。バターが使われることでお菓子のバリエーションや味に深みが出てきました。
初めてのパティシエの組合
1567年には、パティシエ(菓子職人)の組合が正式に設立しました。パティシエが職業として認知されました。さらに、1566年にはシャルル9世の法律により、パティシエはウーブリ屋と完全に分離し、宴会と披露宴の料理を独占しました。
当時のパティスリーは、Pâtisserie-Traiteur(パティスリー・トレトゥール)といい、トレトゥール(総菜屋)を兼ねていました。トレトゥールとは生地を用いた料理や菓子などを販売する店のことをいいます。
※リンク(この頃作られていたお菓子)
つまり、甘いお菓子だけではなく、小麦粉をつかった生地を使った料理を提供する職人のことを指していました。現在でもパティスリーはトレトゥールと兼用している店は多くあり、パリではジェラール・ミュロ Gérard Mulotやエディアール Hédiard、フォション FAUCHONなどが有名です。
大航海時代がはじまる
15世紀半ばになると、大航海時代が始まります。大航海時代とはイスラム世界を通じて行われていたアジアとの交易を直接行うことをめざして、新航路や新大陸を開拓するために海を渡った時代のことを指します。その結果として、アメリカ大陸(新大陸)を発見し、その地で略奪や搾取の限りを尽くします。
16世紀にスペイン人がアゾレス諸島でサトウキビ栽培をはじめます。その後、ポルトガルがブラジルで始めます。
砂糖の原料であるサトウキビは、熱帯地方でジャングルを切り開き、土地を耕すという悪条件のもとで栽培されます。その労働にはアフリカ大陸から集めた黒人奴隷に働かせました。
フランスは中南米のアンティル諸島を植民地として、アフリカから奴隷を連れてきて、サトウキビのプランテーションを始めました。アンティル諸島はイギリスやスペインも狙っており、しばしば戦争が行われました。
砂糖の生産を自国で行うことにより、砂糖の値段が下がり、豊富につかえてお菓子の発展につながっていきます。ただ、砂糖が手に入りやすくなるのは、次の世紀を待たなければなりません。
17世紀もパティスリーの発展はみられず
イタリアから洗練されたお菓子が伝わってきて、サトウキビの生産も始まりましたが、17世紀に入ってもお菓子の発展は見られませんでした。デザートは食事の最後に提供され、生果物は食事のはじめから最後になったことが唯一の発展した点でした。
しかし、大航海時代の新大陸発見により、サトウキビやチョコレート、バニラやコーヒーなどお菓子にまつわる材料がフランスに入ってきはじめます。
チョコレートがフランスにやってくる
まずはチョコレートがフランスの宮廷に伝わってきました。
古代メキシコでは紀元前2000年頃からカカオ豆を栽培していました。ヨーロッパ人が知ったのは、1502年のコロンブスの4回目の航海のときでした。しかし、コロンブスはカカオには興味をもちませんでした。
1519年、フェルナンド・コルテスがメキシコのアステカ帝国を征服したときに、メキシコ人が飲んでいたカカオのどろどろとした飲み物が疲労回復に効くことを知ります。
メキシコでは焙煎したカカオ豆をつぶしてペースト状にしたものを水に溶かして、唐辛子を入れて飲んでいました。苦くて辛く、とてもおいしいものではありませんでした。
彼はスペインに持ち帰り、スペイン国王カルロス1世に献上しました。当時、スペインに入ってくるようになった砂糖を加えると、苦みや辛みがなくなり、香りのよい飲み物となりました。カカオは現在のように固形ではなく、カカオ豆のペーストを水に溶かした飲み物でした。
スペインではこのカカオ豆の飲み物を門外不出とし、レシピを一切外に出しませんでした。
しかし、1606年にスペインからイタリアに伝わり、その後ヨーロッパ各国にも広まっていきました。フランスには、1615年、スペイン国王フェリペ3世の娘アンヌ・ドートリッシュとルイ13世が結婚した際に伝わりました。
カカオペーストを溶かして砂糖を加えた飲み物ショコラは、フランスの宮廷でも広まりました。この頃はまだチョコレートは飲むものでしたが、1659年にイギリスで固形のチョコレートが発明されました。
1660年、同じくスペイン王フェリペ2世の娘マリー・テレーズがルイ14世に嫁いできました。マリーもショコラを飲むのが大好きで、フランスの上流階級に流行しました。
フランスでは当初はスペインと同じ飲み方をしていましたが、次第にフランス流のレシピを開発しました。ペースト状にしたカカオを水か牛乳で溶き、砂糖とハシバミのみやアーモンド、バニラやシナモン、卵を加えてねっとりとさせて、ショコラティエールという専用のポットで注ぎ、付属の棒で泡立てて作っていました。
1670年から80年に、フランスはマルティニック島でカカオの木の栽培をはじめました。1670年には王立チョコレート工場が設立され、チョコレートは健康に良く、元気のもととされました。
固形のチョコレートが一般に流通されるのは、ナポレオンの時代を待ちましょう。
サトウキビ栽培が本格化する
フランスは中南米のアンティル諸島でサトウキビのプランテーションを始め、砂糖が生産されるようになりました。17世紀にはより手の届きやすい価格で手に入るようになります。
つまり、労働料のかからない奴隷が確保できて、活用できたということです。
17世紀半ばには、砂糖を使ったお菓子のレシピが増えてきました。
レシピ本の出版
17世紀半ばになると、砂糖やチョコレートなどの材料が手に入りやすくなり、お菓子のレシピ本や出版されるようになりました。
1653年、料理人のピエール・ド・ラ・ヴァレンヌ Pierre de La Varenneが出版した『Le Pâtissier françois(フランスの菓子職人)』がフランスで最初のお菓子に関するレシピ本です。フォユタージュ(パイ生地)やブリゼ生地、シュー生地などプロ向けのレシピが書かれてあります。甘味と塩味の料理のレシピが載っています。
1690年に出版された『le Dictionnaire universe』の中で、パティスリーについての定義がなされています。パティスリーとは、肉やバター、砂糖、果物などを味付けして、生地に包んだ料理のことで、トゥルトやタルト、ビスキュイやブリオッシュなどのことを指すとしています。
つまり、甘いお菓子だけでなく、小麦粉をつかった生地の中に肉や果物などの具を詰めた料理のことです。
しかし、お菓子のレシピ本が出版されたのにもかかわらず、お菓子の技術や味の発展は見られませんでした。
砂糖が希少だった頃より、砂糖を用いたジャムや果物の砂糖漬けなどのレシピ本も出版されました。
例えば、1545年『Le Petit Traicte contenant la manière de faire toutes confitures』、1660年に『Le Confiturier françois』、1667年に『Le Parfaict Confiturier』などです。
アイスクリームの大流行
16世紀、イタリアのカトリーヌ・ド・メディシスがフランスに様々なお菓子とともに輿入れしたことはお伝えしましたが、そのお菓子の中にジェラートもありました。
その後もフランス宮廷ではジェラートが食べられるようになっていきました。1625年のルイ15世の妹ヘンリエッタ・マライアとイギリス王チャールズ1世の結婚の際に、ジェラートがイギリスに伝わりました。
ジェラートとは果物と砂糖で作った氷菓で、フランス語ではソルベ Sorbetといいます。一方、牛乳やクリームと砂糖で作るアイスクリームはグラス Glaceといいます。
ルイ14世の時代にはアイスクリーム(グラス)が食べられるようになりました。この頃のアイスクリームは生クリームに砂糖と香料を混ぜて、冷やし固めたものでした。
1686年、イタリアのフランチェスコ・プロコピオ Francesco Procopio dei Coltelliがパリにカフェをひらき、アイスクリームを提供しました。アイスクリームにはコーヒーやチョコレート、バニラやシナモンなど当時新しかった材料で味付けをしていました。
そして、新しい飲み物だったカフェや紅茶、ショコラを飲んで、ビスキュイやアイスクリームを食べるというのが大流行しました。
そのカフェはル・プロコープ Le Procopeといい、パリのサン=ジェルマン=デ=プレ地区のランシエンヌ・コメディ通り(Rue de l’Ancienne Comédie)にあり、現在でも営業しているフランスで最も古いカフェです。
シャンティイクリームの登場
17世紀には料理の味付けが変化しました。中世時代にはレモンやブドウからとった汁と砂糖を加えた甘酸っぱいソースが主流でしたが、クリームやバターを用いた脂っこいソースが人気となりました。
1651年に出版されたピエール・ド・ラ・ヴァレンヌ Pierre de La Varenne(前述)の『Le Cuisinier françois(フランスの料理人)』には泡立てたクリームについての記述があります。
この泡立てたクリームはルイ14世も大好きでした。
泡立てたクリームとは生クリームに砂糖を加えてホイップしたもので、のちのシャンティイ・クリームとなるものです。
17世紀半ばに活躍した料理人であるフランソワ・ヴァテール François Vatelがシャンティイ城でつくったのが作ったと言われています。そのため砂糖を加えて泡立てた生クリームのことをクレーム・シャンティイと呼びます。
17世紀からお菓子にも生クリームが使われるようになっていきました。
18世紀はパティスリーの発展のきざし
18世紀は砂糖の転機となる時代です。
*砂糖がより手頃な値段で、技術も向上、パティスリーの発展もある
*chantillyの時代。花の使い方→グルマンディーズやおいしいと言うものがでてくる
*パティスリーの発展、本が出版されたから
*18世紀初頭、ベーキングパウダーの登場
*王妃の登場(アントワネット、マリーレクザンスキ)
マリー・レクザンスキ
マリー・アントワネット
*フランス革命
*カフェ、パティスリー、レストラン